「五輪よかった!」の爽快な構造【佐藤健志】
佐藤健志の「令和の真相」31
◆矛盾に徹することの心地よさ
だとしても、どうしてこんなことになったのか。
これを理解するうえでカギとなる概念があります。
すなわち「爽快」。
この概念については、2018年にベストセラーズより刊行した『平和主義は貧困への道 または対米従属の爽快な末路』で詳しく論じましたが、昭和初期の演劇のあり方をめぐって、評論家の福田恆存氏が述べたことがヒントになっています。
いわく、当時の演劇は「派手なスペクタクル志向」と「左翼的なイデオロギー志向」という分裂した目標を同時に追い求めた。
やればやるほど分裂は進み、スペクタクル志向とイデオロギー志向の双方が、バラバラのまま自己完結してしまった。
そのとき、演劇人はどう反応したか?
【一種爽快の気に酔い、自分の精神の分裂は忘れて、そこではじめて両極(注:スペクタクル志向とイデオロギー志向)の一致が達成されたかのような錯覚に陥るのである。】
(福田恆存『私の演劇白書』より。原文旧かな。『平和主義は貧困への道』251ページ)
分裂が行き着くところまで行き着いたのに、分裂が解消されたような気になったのです。
なぜか。
難しい話ではありません。
行き着くところまで行ったのですから、それ以上の分裂は起こりようがない。
ところが分裂が解消されても、それ以上の分裂は起こりません。
両極端は相通ずというべきか、この点において両者は同じ特徴を持ちます。
だからこそ、おのれの中の分裂、つまり矛盾にずっと悩んできた者にとっては、「分裂の完成」と「分裂の解消」の区別がつかなくなるのです!
つまり「爽快」とは、〈おのれの精神がとことん分裂し、収拾がつかなくなったせいで、統一が回復されたように錯覚すること〉と定義できる。
とことん矛盾に徹すれば、矛盾がなくなったような気がして心地よくなる、そう言い換えることもできるでしょう。
五輪をめぐる世論の逆転も、これで完全に説明がつきます。
2010年代、東京五輪は「日本再生」の象徴のごとく見なされてきました。
都市開催をタテマエにしていようと、五輪に国威発揚の意味合いがあるのを思えば、無理からぬ話です。
ゆえに国民も、五輪に夢を託した。
しかし開催準備の現実は、総崩れにもひとしいゴタゴタ続き。
コロナ禍の収束も果たせません。
夢と現実の分裂、ないし矛盾は、どんどん深まっていったのです。
緊急事態宣言下、無観客での開幕(ついでに開会式は演出家不在のまま!)に追い込まれたことで、これは極限に達しました。
となれば、爽快になるしかないでしょう。
「五輪への期待」と「コロナへの不安」が、バラバラのまま自己完結するということです。
あとはメダル獲得ラッシュが生じれば、国民的熱狂のできあがり。
で、実際にそうなったのです。
ただし、そこまで統合失調状態になった国民が、現実にたいして適切に対処し、発展や繁栄をつかめるとは信じがたい。
もっと言えば、2020年東京オリンピックこそ、2010年代を通じて続いてきた現実逃避の集大成だったのです。
これについては、次回お話ししましょう。
(つづく)